5.現実では、全員が主人公になれない

生活が保証されても、なお残る問題


前回、生活が保障されても争いは消えないのではないか、という話を書いた。
AIがインフラを維持し、ロボットが社会の実務を担い、ベーシックインカムで生存の不安がかなり薄れたとしても、人間の欲望そのものは残る。しかもその欲望の多くは、絶対量ではなく相対比較で増幅される。だから、物質的な不足が解けても、承認、恋愛、成功、中心性をめぐる摩擦は消えない。
ここで、さらにもう一段はっきり言わなければならないことがある。
それは、現実世界では、全員が主人公になることはできない、ということだ。

ここでいう「主人公」とは何か


一つの現実には、中心になれる場所が限られている。
一つの現実には、中心になれる場所が限られている。
この言い方は、少し幼く聞こえるかもしれない。
けれど私は、かなり本質的な言葉だと思っている。
「主人公」というのは、単に目立つ人のことではない。偉い人のことでも、支配者のことでもない。もっと根本的には、自分の行為が世界に意味を持ち、自分の存在が誰かに見つけられ、物語の中心に自分がいると感じられる状態のことだと思っている。
人は、ただ生きたいだけではなく、どこかで主人公でありたい。
誰かの人生の中で、背景ではなく重要な人物でありたい。
ただの交換可能な部品ではなく、自分でなければならない存在だと感じたい。
恋愛でも、友情でも、仕事でも、創作でも、何かの場面で「自分が中心にいる」と感じたい。
この欲望は、特別な人だけのものではない。かなり普遍的なものだと思っている。

現実世界は一つの舞台しか持てない


ただし、現実世界はその欲望に対して、あまりにも構造的に不利だ。
なぜなら、世界が一つしかないからである。
一つの現実世界の中では、時間も注意も、関係も、舞台も共有される。
誰かが中心に立てば、別の誰かは周辺に回る。
誰かが唯一の恋人になれば、別の誰かは選ばれない。
誰かが最も注目されれば、別の誰かは見えなくなる。
もちろん、誰か一人だけが全てを独占するわけではない。現実はもっと複雑だし、人は複数の場に属している。けれど、それでもなお、「中心性」は無限には配れない。ここが重要だ。

物資は増やせても、中心性は増やしにくい


承認の席数は、物資のようには増やしにくい。
承認の席数は、物資のようには増やしにくい。
物資なら、量を増やせる。
お金も、制度の設計次第でかなり広く行き渡らせることができる。
医療も教育も、完全ではないにせよ、普遍化の方向で考えることができる。
しかし、「自分がこの場の中心だと感じられること」は、同じかたちでは全員に配れない。
なぜならそれは、物ではなく関係だからだ。
関係は、常に誰かと誰かのあいだで成立する。そしてその多くは、排他的で、偏りを持ち、偶然と相性に左右される。
ここで、民主主義や平等の理念を否定したいわけではない。
むしろ逆で、平等が目指してきたのは、全員の尊厳を守ることだと思う。
全員が法の下で平等であること。
全員が最低限の生活条件を持つこと。
全員が人間として扱われること。
これは極めて重要で、守られなければならない。
ただ、尊厳が平等であることと、主人公性が平等に配られることは、別の話だ。
全員が人間として大切であることは言える。
けれど、全員が常に誰かの特別であり、常に注目され、常に唯一であり、常に中心であることは、一つの現実世界の中では難しい。
ここを混同すると、現代の不満の構造が見えなくなる。

近代社会の矛盾


私は、近代社会のかなり深い矛盾はここにあると思っている。
制度は、全員の尊厳を守ろうとする。
けれど人間は、尊厳だけでは足りず、主人公性まで欲しがる。
この欲望自体は責められない。
問題は、その欲望を一つの現実世界の中で全員分処理しようとすることにある。

SNSはこの矛盾をむしろ可視化した


SNSはこの矛盾を極端なかたちで見せた。
SNSは、全員に発信権を与えた。
全員が語り、見せ、演じ、反応を得ることができるようになった。
一見すると、それは主人公性の民主化のようにも見える。
けれど実際には、そうではなかった。
全員にマイクは配られたが、全員に舞台が配られたわけではない。
全員が演者になれたが、全員が中心になれたわけではない。
むしろ、比較は以前より細かく、残酷になった。
少数のスターを見上げる時代から、少しだけ近い他人どうしが絶えず比較し合う時代へ移った。
同世代の誰か、似た境遇の誰か、同じ趣味の誰かが、少しだけ自分より注目されている。その差が、遠い有名人よりもずっと強く刺さる。
ここで起きているのは、評価の消滅ではない。
評価の相互化である。
互いが互いの観客であり、互いが互いの審査員になる。
そういう世界で、「全員が主人公になれる」という幻想は、ますます維持しにくくなる。

現実のほとんどの場面で、中心性は有限である


しかも、これはSNSだけの問題ではない。
仕事もそうだ。
どれだけ組織がフラットだと言っても、中心的な役割は偏る。
恋愛もそうだ。
どれだけ多様な関係が認められても、「唯一性」や「選ばれること」への欲望は簡単には消えない。
創作もそうだ。
表現の手段が民主化されても、注目は偏る。
つまり、現実世界のほとんどすべての場面で、主人公性は有限である。

倫理だけでは、この問題は解けない


だから私は、「もっと平等に」「もっと優しく」「もっと認め合おう」という倫理だけでは、この問題は解けないと思っている。
それは必要だし、ないよりずっとよい。
けれど、それで全員が満足するわけではない。
なぜなら、問題は人の性格の悪さではなく、一つの世界を全員で共有しているという構造そのものだからである。

現実世界を否定したいわけではない


ここで重要なのは、現実世界を否定することではない。
現実世界は現実世界として必要だし、そこでしか成立しないものもある。
ただ、その一つの世界だけに、仕事も、恋愛も、承認も、成功も、居場所も、中心性も、すべてを詰め込むのは無理がある。
一つの器に、人間の欲望を全部流し込もうとしているから、あふれるのである。

だから、舞台を増やすしかない


一つの現実で足りないなら、舞台を増やすしかない。
一つの現実で足りないなら、舞台を増やすしかない。
だったら、答えはかなり単純だ。
舞台を増やすしかない。
私は、人工世界の必要性をここから考えている。
人工世界とは、現実世界の劣化版ではない。
現実で起きる衝突を、別の空間で処理するための追加の舞台である。
現実の中で全員を主人公にできないなら、それぞれが自分の物語の中心にいられる世界を別に持てばよい。
現実では一つの関係が排他的でも、人工世界では自分にとっての中心性を別に成立させることができる。
現実では全員が同じ舞台を奪い合うしかなくても、人工世界なら舞台そのものを増やせる。

人工世界は「逃避」ではなく、現実への応答である


ここで、よくある反応は、「そんなものは逃避ではないか」というものだと思う。
けれど私は、むしろ逆だと思っている。
逃避というのは、問題を見ないふりをすることだ。
しかし、現実世界が一つしかない以上、全員の主人公性をそこだけで受け止めきれないということを認めるのは、かなり冷静な現実認識である。
その限界を認めたうえで、別の舞台を設計する。
これは逃げることではなく、飽和した現実を壊さないための工学的な発想に近い。

我慢ではなく、舞台の設計が必要になる


現実世界だけで全員を満たそうとする限り、比較は消えない。
誰かが中心である限り、別の誰かは周縁になる。
誰かが選ばれる限り、別の誰かは選ばれない。
この構造を変えないまま、「もっと我慢しよう」「もっと成熟しよう」と言っても、限界がある。
だから必要なのは、人間を責めることではなく、舞台を増やすことだ。
私は、この意味で、人工世界は贅沢品ではなく、かなり本質的な社会インフラになると思っている。
ただし、ここでまだ一つ大きな問題が残る。
その舞台に立つ相手は、誰なのか。
現実と同じように人間同士をそのまま持ち込めば、そこでもまた比較と競争が再生産される。
だとすれば、人工世界の他者は、現実の他者とは違うものでなければならない。
次に考えるべきなのは、その点である。