3.人は何によって「ここにいてよい」と感じてきたのか
評価の前にある問い
前回、評価社会は自然発生したものではなく、戦後教育とメディア、そしてSNS的な個人間比較の広がりの中で、かなり強く作られてきたのではないか、という話を書いた。
成績、学歴、所属、肩書、年収、反応の数。そうしたものは本来、社会を動かすための便利な指標にすぎない。けれど、それが長く繰り返されると、人はいつの間にか、その指標でしか自分を確かめられなくなる。
ただ、ここで一つ立ち止まる必要がある。
そもそも人は、なぜそんなにも「自分はここにいてよいのか」を確かめたがるのか。
なぜ、ただ生きているだけでは足りず、何かしらの根拠を求め続けるのか。
私は、この問いに対して、近代以降の評価制度だけで説明するのは不十分だと思っている。
もっと前から、人間は何らかのかたちで、自分の存在を外側から支えられて生きてきたからである。
言い換えれば、人は完全に自力で意味を作って生きるようには、もともとできていない。
人間は「意味」を必要とする
人間は、食べて、寝て、安全であればそれで安定する生き物ではない。
もちろん、生存の条件は重要だ。飢えや恐怖や暴力の中で、意味の話だけをしても仕方がない。けれど、生き延びられる状況になったとき、人はすぐに別の問いにぶつかる。
なぜ自分はここにいるのか。
何のために生きるのか。
どこに向かっているのか。
誰に必要とされているのか。
こうした問いは、贅沢だから出てくるのではない。人間の意識がある限り、かなり自然に立ち上がってくるものだと思う。
そして、その問いに対して、人間は昔から、完全に個人の内面だけで答えてきたわけではない。
むしろ、多くの場合、答えは外側から与えられてきた。
役割は外側から与えられていた
家の中での役割。
地域の中での立場。
年齢や性別や職能に応じた期待。
祖先や子孫への責任。
共同体の中で果たすべき仕事。
そうしたものが、人に「あなたは何者か」を先に与えていた。
これは自由が少ないことでもあるが、同時に、毎回ゼロから自分の存在理由を証明しなくてもよい、ということでもある。
宗教は「意味の供給装置」だった

ここで宗教の話を避けることはできない。
私は宗教の真偽や教義の優劣を論じたいわけではない。注目したいのは、その機能である。
宗教は長いあいだ、多くの社会で「意味の供給装置」として働いてきた。
何が善で、何が悪か。
何に感謝すべきか。
苦しみをどう受け止めるか。
死をどう理解するか。
何のために生きるか。
こうした問いに対して、宗教は個人に完全な自由回答を迫らない。大きな枠組みを先に与える。
その枠組みがあるからこそ、人は不条理や苦しみの中でも、自分の人生をある物語の中に位置づけることができた。
重要なのは、ここで言う宗教が、単なる信念の集合ではないということだ。
それは、儀礼であり、習慣であり、共同体であり、時間の流れ方でもある。
祈ること、集まること、祝うこと、悼むこと。そうした身体的で反復的な行為を通して、人は「自分はこの世界のどこかに属している」と感じる。
つまり宗教は、抽象的な思想というより、意味を生活の中に埋め込む仕組みだった。
共同体もまた、意味を与えていた
共同体も似た役割を果たしていた。
家族、地域、村、町内、学校以前の徒弟関係や職能集団。そうした場は、窮屈であると同時に、居場所を与えていた。
現代人は共同体をすぐに束縛として理解する。実際、その面はかなりあるだろう。
けれど、束縛であることと、意味を与えていたことは両立する。
むしろ、意味を強く与えるものは、たいてい何らかのかたちで自由を制限する。
完全に自由で、完全に意味が与えられている、という状態はたぶん成立しにくい。
近代以降、「意味の供給源」は変わった

近代以降に起きた大きな変化は、この外部から与えられる意味の装置が弱くなったことだと思う。
家や地域の拘束は弱まり、宗教の位置も変わり、個人が自分で生き方を選ぶことが肯定されるようになった。これは大きな解放である。
ただ、その解放は同時に、「自分で意味を作れ」という圧力でもあった。
ここで人は、本当に一から自由に意味を創造したのではない。
もっと分かりやすく、もっと共有しやすく、もっと比較可能なものへ意味を置き換えていった。
その代表が評価である。
評価は意味の代用品になった
よい点数を取る。
よい学校に入る。
よい会社に入る。
成果を出す。
昇進する。
数字がつく。
こうしたものは、本来は社会の中での位置決めの道具にすぎない。
けれど、宗教や共同体が担っていた「ここにいてよい」という感覚が薄くなると、評価がその代用品として働き始める。
役に立っている。
必要とされている。
優れている。
勝っている。
それだけで、人はとりあえず生きる理由を得たように感じられる。
だから前回書いたように、働くことは安心を生む。
それは仕事が好きだからだけではなく、仕事が自分の存在を社会へ接続する儀式になっているからだ。
昔は宗教や共同体が与えていた「位置」が、今は職業や評価に置き換わっている。
評価は意味の代用品にはなれても、意味そのものにはなりにくい
ただ、この置き換えには明らかな限界がある。
宗教や共同体が与えていた意味は、よくも悪くも人生全体を包むものだった。
けれど、評価は人生全体を静かに支えるものにはなりにくい。評価は変動するし、比較の上に成り立つし、終わりがないからである。
よい評価を得た瞬間に一時的な安心はある。けれど、それはすぐに次の比較へ飲み込まれる。
だから、評価を軸に生きている人ほど、休めない。止まれない。何かを達成していないと不安になる。
評価は、意味の代用品にはなれても、意味そのものにはなりにくい。
エンタメは意味の代用品としてかなり優秀だった

ここで、エンタメの話が重要になる。
私はエンタメを軽く見ていない。むしろ、人間がどうやって意味を補充しているかを示す、かなり優れた窓口だと思っている。
異世界転生ものが流行る。
ヒーロー物が何度も作られる。
スポーツ観戦で、自分が戦っていないのに心が熱くなる。
アイドルや配信者の成功に、自分の誇りを重ねる。
恋愛ゲームや物語に深く入り込み、その中で自分の感情や価値観が動かされる。
これらは全部、「別の物語に接続することで、自分の位置を一時的に回復する」働きを持っている。
人は、現実の中で自分が背景に感じられるとき、物語の中で主人公性を補給する。
もちろん、それは永続的な解決ではない。映画を見終われば戻ってくるし、試合が終われば終わるし、ライブの後には日常がある。
けれど、その一時的な補給がかなり強力だからこそ、エンタメは広く必要とされてきた。
ここで見えてくるのは、人間が「ただ生きられること」以上に、「何かの中心にいる感覚」を必要としているということだ。
AI時代に前面化するのは「意味の空白」である
このことは、今後の社会を考えるうえで非常に大きい。
AIが発達し、ロボットが仕事を代替し、人間が生存のために働かなくてよくなったとしても、それで自動的に幸福になるわけではない。
なぜなら、仕事が減るということは、評価を通じて得ていた安心や、役割を通じて得ていた実在感も薄くなるということだからだ。
そのとき前面に出てくるのは、単なる暇ではない。
意味の空白である。
今日、何のために起きるのか。
誰に必要とされるのか。
何によって、自分がここにいてよいと感じられるのか。
昔なら、宗教や共同体がかなりの部分を引き受けていた。近代以降は、評価や労働がそれを代替してきた。
では、その先は何なのか。
私は、この問いがAI時代の中心問題の一つになると思っている。
人間は、意味なしにはうまく生きられない。
けれど、昔の意味の装置には戻れないし、評価だけでは限界がある。
だとすれば、新しい意味の受け皿が必要になる。
そして、その受け皿は、単なる制度でも、単なる倫理でも足りない。
人が本当にそこで自分の存在を納得できるほど、強いものでなければならない。
次に考えるべきこと
ここまで来ると、問題は労働論ではなくなる。
それは、人間が何によって満たされ、何によって主人公であると感じ、どこで自分の存在を支えるのか、という話になる。
次に考えるべきなのは、生活が保障されたとしても、なぜ争いは消えないのか、ということだ。
生きるための不安が薄れたあと、人間の欲望はどこへ向かうのか。
その先で初めて、人工世界の必要性が本格的に見えてくると思う。