4.生活が保証されても、なぜ争いは消えないのか

生存の問題が解けても、欲望の問題は残る


前回、人はただ生き延びられれば満足するわけではなく、「ここにいてよい」と感じられる意味の装置を必要としてきた、という話を書いた。宗教や共同体が弱くなった現代では、その代用品として評価や労働がかなり大きな役割を担っている。そして、AIが発達して仕事が減っていく社会では、その代用品もまた揺らぎ始める。
ここでよく出てくるのが、ベーシックインカムのような発想である。
AIが国家運営を支え、ロボットがインフラを維持し、人間が生存のために働かなくてもよい社会。最低限の生活費は保障され、食べることにも住むことにも困らない。いまの社会の大きな苦しみの多くは、たしかにここでかなり軽くなるだろう。長時間労働も、低賃金も、不安定雇用も、「働かなければ生きられない」という切迫も、大きく薄まるはずだ。
しかし、私はそこで自動的に平和が来るとは思っていない。
むしろ、生存の問題が解けたあとに、人間の別の欲望がより剥き出しになると考えている。
言い換えれば、ベーシックインカムが解くのは「生きられない苦しみ」であって、「比べてしまう苦しみ」ではない。

人間の欲望は相対比較で動く


足りることと、満たされることは同じではない。
足りることと、満たされることは同じではない。
人間は、ただ足りているかどうかだけで満足するようにはできていない。
食べられる。住める。安全である。それ自体は大きい。けれど、それが満たされた瞬間、人はすぐに別の問いへ移る。何を食べているか。どこに住んでいるか。誰に愛されているか。どれだけ認められているか。どれだけ自分が中心にいられるか。つまり、人間の欲望は絶対量だけで動いているのではなく、かなりの部分を相対比較で動いている。
このことは、現代でもすでに見えている。
たとえば、最低限の生活が成立している社会でも、人は不満を持つ。もちろん制度や格差の問題は現実にあるのだが、それと同時に、隣にいる他人が見えるというだけで、自分の満足は揺らぐ。誰かが自分より楽しそうに見える。誰かが自分よりいいものを食べている。誰かが自分より承認されているように見える。その瞬間、「足りているはずの自分」が急に足りなくなる。ここで起きているのは、生存の問題ではない。比較の問題である。

AIとロボットが社会を支えても、比較は消えない


だから、AIとロボットが社会を支え、エネルギーも資源もほぼ問題にならず、最低限の金銭が全員に配られるような世界を想定しても、人間同士の摩擦が自動的に消えるとは考えにくい。
むしろ、労働によって薄められていた欲望が、そのまま前面に出てくる可能性がある。
働いていた時代には、疲れていることで救われていた部分があった。時間がなかったことで、考えずに済んでいた部分もあった。何かを成し遂げるという名目の下で、自分の位置をとりあえず納得できていた部分もある。けれど、それらが外れたあと、人はもっと裸の状態で、「自分は何を求めているのか」と向き合わされる。

平等な配布でも、使い方の差は目立つ


平等な配布は、欲望の差までは消さない。
平等な配布は、欲望の差までは消さない。
ここで見落とされがちなのは、ベーシックインカムが平等に配られるほど、逆に「何に使ったか」の差が目立つようになるということだ。
同じ金額を受け取っていても、人は同じ使い方をしない。ある人は食に使う。ある人は移動に使う。ある人は趣味に使う。ある人は身体を飾るかもしれないし、別の人は巨大な装置や世界に投資するかもしれない。そうすると、制度としては平等であっても、見える景色はすぐに違ってくる。
ここで重要なのは、その違いそのものが悪いということではない。
むしろ、人によって好みが違うのは当然だ。
問題は、その違いが可視化されたとき、人間は「自分は自分」と簡単には割り切れないということだ。
自分には必要ないと思っていたはずのものでも、隣で誰かがそれを楽しんでいるのを見ると、急に欲しくなる。自分には向いていないと思っていた人生でも、他人がその中で充足しているように見えると、「自分もそちらに行くべきではないか」と感じ始める。欲望は自分の中から自然に湧くだけではなく、他人を見て増幅する。ここが、人間のかなり厄介なところだと思う。

ベーシックインカムでは「中心性」は配れない


生活の土台が平等でも、中心性は均等に配れない。
生活の土台が平等でも、中心性は均等に配れない。
さらに言えば、ベーシックインカムが保証するのは、生活の土台であって、中心性ではない。
人はただ生きたいだけではない。どこかで、自分が重要でありたい。選ばれたい。見つめられたい。必要とされたい。恋愛でも、友情でも、創作でも、何かの世界の中で、自分が背景ではなく中心にいたい。
この欲望は、制度では配りにくい。
お金は配れる。住居も支えられる。医療も教育も整えられるかもしれない。けれど、「あなたは唯一の存在です」という実感を、現実世界のひとつの舞台の中で全員に同時に配ることは難しい。
私は、ここにベーシックインカム論の限界があると思っている。
それは制度として弱いという意味ではない。制度としては強いし、必要だろう。ただ、それが扱えるのはあくまで生存や最低限の生活条件であって、人間の承認欲求や比較欲求や主人公性の欲望までは処理しきれないということだ。
そして、その欲望が残る限り、現実世界は静かにはならない。

問題は人間の性格ではなく、舞台の構造にある


ここで一つ、誤解を避けたい。
私は、人間は醜いから争うのだ、というようなことを言いたいわけではない。
むしろ逆で、人間が比較し、承認を求め、中心にいたがるのは、かなり自然なことだと思っている。問題は、その自然な欲望を、ひとつしかない現実世界の中で処理しようとしていることだ。現実世界の中では、恋愛も、注目も、成功も、関係性も、同じ舞台の上で配分される。ならば、どこかで衝突するのはほとんど必然である。

労働の消失は、欲望を薄める緩衝材も消す


ベーシックインカムは、その衝突をなくさない。
それどころか、生存の不安が薄れたあとの社会では、むしろその衝突がより純粋な形で見えてくるかもしれない。
仕事がある時代には、仕事が欲望の緩衝材だった。
比較して苦しくても、とりあえずやるべきことがあった。
評価に疲れても、評価されること自体が存在の支えになっていた。
しかし、そこから解放されたあと、人間は自分の欲望ともっと直接向き合うことになる。
そして、現実世界が一つしかない限り、その欲望はまた現実を不安定にする。

必要なのは、欲望を否定することではない


だから私は、生活保障の先に必要なのは、「我慢する倫理」ではないと思っている。
欲望を消せ、と言っても消えない。
比較するな、と言っても止まらない。
必要なのは、欲望を否定することではなく、それを別のかたちで受け止めることだ。
つまり、現実世界の中だけで全てを解決しようとするのをやめることだ。

ここから人工世界の必要性が見えてくる


ここで初めて、人工世界の必要性が見えてくる。
現実が一つしかないから衝突するのなら、舞台を増やすしかない。
全員が同じ現実の中で恋愛も承認も成功も奪い合うのではなく、それぞれが自分の中心でいられる別の世界を持てばよい。
ベーシックインカムが生活を守り、AIとロボットが現実を支え、そして人工世界が欲望の衝突を受け止める。
私は、この三つが揃って初めて、次の社会の輪郭が見え始めるのではないかと思っている。

次に考えたいこと


次に考えたいのは、そのとき現実世界にはどんな限界があるのか、ということだ。
もっとはっきり言えば、現実では、なぜ全員が主人公になれないのか。
そこを直視しない限り、人工世界の話は単なる空想に見えてしまう。
けれど実際には、その限界こそが、人工世界を必要にしているのだと思う。